M0 社会と自分(1)「補集合」に現れる自分


数学で「補集合」というと、「全体(集合)から、ある特定の一部分(集合)を取り出したときに残る部分(集合)」のこと。だが、これでは何のことだか分かりにくいだろう。例えば、ジグソーパズルの完成図から、ある特定の1ピースを取り除いたとする。その際に残った部分を、その1ピースに対する「補集合」という。上の写真からもイメージできるように、ピースを抜き取ると「補集合」には抜き取ったピースの痕跡が残る。

なぜ、こんな面倒なことを持ち出したかというと、人間社会における「自分と自分を囲むものとの関係」が「特定の1ピースと補集合の関係」に似ていると思うからだ。


1ピース(自分)は周りのピースがなければ、自らの存在と役割を確定できない。逆に全体の絵は、その1ピースがなければ完成しない。この認識は、職場を始めとする、所属するコミュニティと自分の関係を考える上で、大事な示唆を与えてくれる。

人間社会は膨大な規模の分業で成り立っている。社会の中では自分一人で結果を出せることはほとんどない。同時に、ひとり一人がそれぞれの役割を果たさなければ、社会は機能しない。

ここで二つのことが大事になる。一つは、自分が全体(職場や社会)のために貢献する力を持つこと。もう一つは、それを有効に発揮できるよう周囲と適切に連携する力をもつことである。社会で生きるには、この二つの力を高める必要がある。

前者は、例えば会社では、設計や製造や営業といった役割に応じた職務能力をつけることなので、比較的分かりやすいと思う。後者の「周囲と適切に連携する」とは、自分の考えを伝えたり、相手の考えを理解したり、自分の行動を調整したり、相手に行動を促したりすることを意味する。社会生活では、これが容易ではない。そこには自分以外のもの(他者)が介在し、自分との間で葛藤が生じるからだ。

これを「自分対他者」、「主体対客体」とみると、往々にして上手く行かない気がする。共存するコミュニティにおける他者の気持ちや言動は、ジクソーパズルのように、自分とのデコボコ関係で成り立っているからだ。自分の言動が相手に影響を及ぼし、相手の言動には自分の言動への反応が表出する。「補集合」(相手)の中に自分の痕跡が残っているのである。

すなわち、相手を見ているようで、実は「補集合としての自分」を見ている・・といったケースはよくある。したがって、「周囲と適切に連携する」ためには、自分自身を大切に思うと同様に、自分と他者との関係、すなわち「補集合に現れる自分」も大切にする必要がある。

「自分」とは、『自』らに備わった本『分』という意味だが、『自』然の中の一部『分』と解釈することもできる。我々は孤立して存在しているのではなく、万物に包含されて生かされている。「自分以外の存在があるからこそ、自分の存在意義が確定できる」という認識は、自分と他者との関係(社会)を考える上で大きな助けになるだろう。

少々難しい話になったが、そう考えると他者との境界(関係)も自分ピースの一部として大切に感じられ、人間社会の営みはもっと穏やかなものになるように思えてくる。