久々の高視聴率を得ているテレビドラマ「半沢直樹」。当然ながら、観る者の気持ちは主人公・半沢直樹に同化する。憎き相手が出てくれば苛立たしく思い、半沢が危うくなればハラハラドキドキ。全ては、最後のクライマックス「倍返し」に至るお膳立てだ。
ドラマのコンセプトは「水戸黄門」と同様、悪を懲らしめ、正義を貫く、勧善懲悪。日本人はいつの時代もこれが好きだ。しかし、半沢と黄門さまとはどこかが違う。黄門さまは、悪に向かって、「謝れ!」 「出ていけ!」
「土下座しろ!」とは言わない。印籠が出て来た時点で全員土下座するので、実は言う必要もない。一方、半沢はこれを言わないと白黒がつかない。度が過ぎた言い回しだが、観る側もこれを痛快と感じるところに、今の日本社会の鬱積した陰がある。
「清濁併せ飲む」という言葉がある。辞書には、「善も悪も分け隔てなく、来るがままに人や物事を受け入れる度量の大きさを指す」とある。処世術としては、「世の中、きれい事だけでは生きられず、時にはグレイなことをするのも大人の流儀」と解釈している人も多いように思う。しかし、これは本来の意味ではない。真の意味は「世の中、善ばかりではない現実を直視して、自らは善を貫け」との教えだと、私は理解している。
不善な事や、自分の利益のために他人を騙す不届き者の存在を受け入れられないと、それらに遭遇した時に心が乱れる。世の中、善ばかりではない現実を認識して、自らは冷静に、すなわち悪にいら立つことなく、善を貫くことである。
コロナウィルスの感染が拡大する中、バスの車内でマスクを着けずに近づく乗客に罵声を浴びせたり、豪雨で止まった電車の振り替え輸送の対応ミスに、駅員を怒鳴りつけたり、芸能人の不適切な一発言や行動に、SNSでバッシングしたりする人たちがいる。いずれも、そうする側には正当性があると思っての行動だろう。しかし、これらは単に自分のいらだちの発露であり、相手の改善や更生を願っての行為ではなかろう。
人への関わり方は難しい。感情の赴くままにアプローチするだけでは、健全な関係性は望めない。ドラマで演じられる赤裸々な悪だけでなく、「倍返し」で終わる正義の中にも、人が根底に抱えるコントロールし難い自我が潜んでいるように感じるのは、私だけだろうか。