「稼いだお金は、全て使い切って死ぬのが理想」と、考える人がいる*。使わずして死ぬのは、それを稼ぐために使った人生の時間をその分ムダにしたことと同じだからとの見解だ。一理ある。
だが、この考えには暗黙の前提がある。「お金を稼ぐ時間は、人生で有益な時間ではない」とする点だ。確かに、お金を稼ぐ活動の目的が得られるお金だけにあるなら、それに使う時間は単なる手段となる。同じ額のお金が稼げるなら、この種の時間は少ないほどいい。しかし、もしその活動それ自体に価値があると認めるなら、話は少し違ってこないか。
働くという行為は、経済活動以前に社会活動だ。なぜなら、社会に何らかの価値を提供しない限り、その対価としての経済価値(お金)は得られないからだ。社会価値とは、人々にとって有益なモノやコト、人が欲しがったり、喜んだりする対象だ。困っている人を助けることも含まれる。
働く意識と目的がここにあれば、「自分にとって価値があり、心地よい活動によってお金を稼ぐ」ことも不可能ではない。もちろん、どんな活動にどんな価値を見出すかは、人それぞれだ。その社会価値が大きければ大きいほど、得られるお金も大きくなるはずである。
分業で成り立つ会社組織で働いていると、自分の仕事と社会価値とのつながりがあいまいになりがちだ。会社は社会に価値を創出することで売上を上げるが、社員は分割された職務を果たすことで給与を得る。会社が創出する社会価値と自分の職務との関係を常に心していないと、会社勤めは、単なる給与を稼ぐための「労働」になりかねない。
社員が会社の創出する社会価値を深く理解し、それに意義を感じて誇りを持つことは、企業経営の大前提だ。この価値観の醸成は、経営トップの重要な仕事である。しかし、「何のために事業をしているのか」を社員に説く経営者は、意外に少ないのが現実だ。
社員は必ずしも、売上や利益率の大きさによって鼓舞され仕事に邁進するわけではない。「会社はこれからどこに向かって、どう変わるのか」、「どんな新たな社会価値を生み出すのか」、「そのためには社員にはどうなって欲しいのか」、「そうなった暁(あかつき)には、社会と会社と社員にどんな未来が待っているのか」。経営リーダーが共に働くメンバーに語るべきは、こういうことだ。いたずらに業績結果や株価を意識して、売上高や利益率だけを目標に掲げれば済むことではない。
社会が豊かになり、顕在化している需要(欠乏)を満たすための量的な労働提供型職業はなくなりつつある。これに伴い、「お金を稼ぐ時間」は「義務と責任で全うする」ものから「使命と喜びで楽しむ」ものへと変容するだろう。そうでなければ、人生100年時代を嬉々としては生き抜けない。
先ずは、今の仕事を通して自分が創出する社会価値を改めて問い、それを楽しむことが出来る力量を備えたい。
関連図書:
*DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール ビル・パーキンス著 ダイヤモンド社