2025年8月15日、日本は敗戦から80年を迎えた。全国戦没者追悼式で石破首相は、首相の式辞としては13年ぶりに戦争への「反省」という言葉を盛り込んだ。
第二次安倍政権以来、歴代内閣は「子孫に謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」との考えから、「反省」という言葉を避けてきた。しかし、未来をより良いものとするには、過去への内省が欠かせない。反省や謝罪を不都合として排除すれば、未来への指針を失いかねない。反省や謝罪は、未来を生き抜く信念の礎とも言える。ましてやそれらが人間社会の基本原則に則したものなら、むしろ世代を超えて引き継がれるべきものであろう。
日本人は往々にして、理非を正面から問うことを避けがちだ。他国民と自国民に甚大な犠牲を強い、国家の存続すら危うくした戦争の記憶も、時間の経過とともに薄れてきている。過去の誤りを明確に刻むよりも、戦勝国アメリカへの追従を優先してきた結果とも言える。その姿勢は、戦後80年を経て一層揺らいでいるように映る。
核兵器廃絶と不戦の取り組みも同様である。日本は唯一の被爆国として世界をリードすべき立場にありながら、核兵器禁止条約には署名せず、会議にも出席していない。アメリカの「核の傘」との矛盾を理由に、思考停止に陥り、自らの立場と覚悟を示せていない。この消極姿勢は、国際社会から「核兵器を事実上容認している」と見られても仕方ないだろう。
現実には、核を保有する国とそうでない国の間には圧倒的な力の差がある。非保有国がこの劣勢を解消する手段は、①自国で核を持つか、②核保有国と同盟を結ぶか、ほぼ二つに限られる。北朝鮮は前者を、日米安保やNATOは後者を選んだ結果である。だが、新たに核を持とうとする国は、既存の核保有国から脅威とみなされる。結果として、多くの国がいずれかの核保有国グループに属するしかなくなる。
問題は、もしそれらのグループ同士が衝突すれば、人類は核戦争という破滅的な道に直面するという点である。歴史を振り返れば、偶発的な事件や独裁者の暴走が戦争の引き金となった例は少なくない。核保有国は常にその危険の縁に立っている。ゆえに、核兵器を持つ国こそ、使用禁止と不戦の原則を明確にし、不断の自制と具体策を講じる責任がある。
事実、アメリカではケネディやオバマをはじめ、多くの大統領が「長崎を最後に核を使わない」という姿勢を保ってきた。日本は、核の惨禍を経験した唯一の国家であり、かつ最大の核保有国アメリカの同盟国である。その立場は、核使用を思いとどまらせる「良識あるパートナー」としての重みを持つはずだ。(しかも、核による日本の惨禍がアメリカによってもたらされたもの故、なおさらだ。)両国は、全世界が核武装する時代を想定し、そのリスクと対応策について熟議しなければならない。しかし、残念ながらこれまでそうした議論が行われた形跡は乏しい。
ロシア・ウクライナ戦争やイスラエル・ハマスの惨状を目にすれば、今こそ人類に理性と叡智が求められていることは明らかである。日本には、被爆体験という唯一無二の歴史をもとに、平和を希求する世界の先頭に立つ使命と責務がある。
「不戦の覚悟を貫く」こと、それこそが敗戦80年を経た日本が未来に果たすべき役割である。
コメント
コメントを投稿