M10 市場を操る「見えざる手」の正体は?

 


「選挙結果に市場が敏感に反応した」、「FRBの利下げのタイミングを市場が探っている」―—。ニュースでは市場がまるで意思を持つ生き物のように語られる。市場とは一体何モノなのか。

18世紀の経済学者アダム・スミス*は、著書『国富論』で「人間社会の商取引においては、各個人が自らの安全と利益を追求することが、結果として社会全体の適切な利益配分につながる」と説いた。その働きを彼は「見えざる手(an invisible hand)」と呼び、これが今日の自由主義経済の原点と言われている。

しかし、これから単純に「経済活動は、市場に任せておけば自然にうまくいく」と考えるのはいかにも早計だ。スミスが言いたかったのは、市場価格が需要と供給のバランス点に収束するメカニズムであり、決して神秘的な力ではない。

では、実際に市場を動かしているのは何か。

スミスは『国富論』の17年前に『道徳感情論』を著し、人間の心には「利己心」と「共感心(利他)」が共存すると述べている。私たちは自らの利益を求めると同時に、他者が喜ぶ姿にも幸福を感じる存在だ。つまり、市場とは人間の感情と理性がせめぎ合う舞台なのである。

現実の市場では、しばしば利己の心が前面に出て、投機や独占、情報操作などが横行する。しかし、これらが行き過ぎれば市場は信頼を失い、やがて自壊する。現代の市場を見ても、この構図は変わらない。過剰な投機や情報の操作、AI取引による乱高下――どれも人間の「欲望」が生み出す現象だ。利己心だけが暴走すれば、やがて信頼は失われ、システムは崩壊する。

市場を動かす力とは、経済原理以前に「人間の心の在り方」なのである。市場は決して合理的な計算装置ではなく、人の心理の集合体である。だからこそ、市場の健全性を保つには、参加する一人ひとりの「理性」と「倫理」が欠かせない。

この点で、スミスの思想は渋沢栄一の『論語と算盤』に通じる。経済は人間の欲求だけでなく、理性と倫理の上に成り立つ。道徳なき経済活動は、目的を失った競争に陥る。逆に、人としての誠実さと節度を備えた経済人が多く存在すれば、社会は安定し、市場も信頼を取り戻す。

それを支えるのが教育であり、スミス自身も『国富論』の中で公共の役割として教育の必要性を強調している。人々が公正さと判断力を身につけることで、初めて市場は自由を保ちつつ秩序を維持できるのだ。

結局のところ、「見えざる手」とは神の手ではなく、人間の理性と良心のことである。市場とは、そこに生きる私たちの集合的な心の鏡だ。投資家も経営者も消費者も、市場を形成する要素である。だからこそ、経済を語る前に、自らの心の動機を見つめ直すことが大切だ。

アダム・スミスの二つの著作—―『道徳感情論』と『国富論』は、「人間とは何か、社会とはどうあるべきか」という根源的なテーマに対する詳細で包括的な考察だ。市場の健全さは、人と社会の成熟度を映す鏡である。私たち一人ひとりの中にこそ、「見えざる手」は宿っている。


*アダム・スミス(1723-1790)英国の哲学者、倫理学者、経済学者。1776年に出版された『国富論』により「経済学の父」と呼ばれる。それに先立ち1759年に書かれた倫理学書『道徳感情論』は『国富論』の理論体系のベースになった著作とされる。

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