組織内での職責が上がれば、複数の課題を並行して処理する「マルチタスク能力」が求められる。あれもこれも抱えながら前に進むのが経営リーダーの性(さが)だ。しかし本当に人間は、同時に複数のことをこなせるのだろうか。
かつて受けた研修で、印象に残る思考のエクササイズを体験した。最初に目を閉じ、青空を背景にした雄大な富士山を一分間描き出す(STEP1)。次に目を開けて深呼吸し、再び目を閉じ、今度は今日から一週間先までの自分のスケジュールを頭の中に並べていく(STEP2)。そのうえで最後にもう一度目を閉じ、先ほどの富士山と一週間のスケジュールを同時に思い描く(STEP3)。
実際にやってみると、STEP3は驚くほど難しい。富士山を思い浮かべた瞬間、スケジュールが消える。スケジュールを意識した途端、富士山の姿が曖昧になる。人間の脳は、本質的に一度に複数のことを処理するようにはできていないという事実を、この簡単なエクササイズは教えてくれる。私にとっては、仕事の仕方を考える上での起点となった体験だった。
経営者やマネージャーであれば、複数の課題を同時に抱えることは日常である。私自身、事業部長を務めていた頃、国内と海外それぞれで大きなトラブルが発生し、どちらも一刻の猶予もない状況に追い込まれたことがある。目の前には二つの火種。両方に意識が向くものの、どちらに手を付けても中途半端になる。焦りばかりが募っていった。
そんな時、アメリカ人の上司がオンライン会議の途中で静かに言った。“One Battle at a Time.”
一度に戦うのは一つでいい。いま取り組むべき戦いをまず選べ――という助言だった。このひと言で視界が開けた。二つのトラブルは同時に解決できるものではない。優先順位を定め、一つずつ片づけていくしかないのだと腹に落ちた。結果として、国内のトラブルへの対応に集中し、短期間で状況を安定させ、その後に海外案件へ取り掛かるという流れが自然に整った。
この経験から、「いわゆる並行処理が、同時処理とは全く違う」ことを理解した。複数の課題を抱えていても、実際に向き合っている瞬間は一つだけ。短い時間でもその一つに意識を集中させ、終われば次に切り替える。この切り替えの連続こそが、並行処理の正体なのである。
日常のささいな場面でも同じだ。パソコンで資料を作成している最中に部下が話しかけてきたとき、私は以前、画面を見ながら返事をして失敗したことがある。相手の話の意図がうまくつかめず、結局、後日再度説明を求めることとなった。それ以来、作業の区切りがつくまで待ってもらうか、いったん手を止めて部下の話を聴くか、どちらかに決めている。流れ作業のように両方へ意識を向けても、結果はどちらも中途半端になるからだ。
むしろ「今、目の前の一つだけに集中する」ことで、仕事の速度も質も上がる。タスクが山積みのときほど、この考え方は効果を発揮する。
複雑性が増す一方でITツールが普及し、誰もが多くの課題を抱える時代である。しかしだからこそ、”One Battle at a Time”。一度に戦うのは一つでいい。選び、集中し、切り替える――その小さな積み重ねが結果として大きな前進を生むのものと、今も自分に言い聞かせている。

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