M4 いまの仕事、誰にどう引き継ぎますか?


 
職場で毎年行われる人事異動、いつ自分の番かが気になるところだが、肝心なことが抜け落ちがちだ。「後任者への引継ぎ」である。通達から異動日まで短い場合もあり、多くの職場で十分な引継ぎが行われていないことが気にかかる。

人間社会は、過去からの膨大な経験智の集積の上に成り立っている。逆に言えば、人間社会の発展には、世代をつなぐ経験と知見の伝承が必要不可欠だ。これがなければ、誰もが生まれるたびに「地球と太陽、どっちが動いているのか?」から、自分で探求しなくてはならない。職場においては、それほど大それた知見でなくとも、「この仕事をやったら、自分の場合はこうだった」で十分だ。それが次世代を歩む人たちにとって大事なヒントになる。企業にとってこの伝承の仕組みの有無は、社運にもかかわる。

かつて重電メーカーで経営職にあったころ、社員全員に「引継ぎパッケージ」を作ってもらったことがある。様式にはこだわらず、「後任者に今の仕事を引き継ぐなら、どんな資料を用意するか?」をテーマに、社内コンテストを行った。いくつもの秀作が寄せられたが、中でも記憶に残る二つがある。

一つは、中堅サービスエンジニアのもの。数十ページにおよぶ大作で、現場作業のプロセスが、多くの写真と共に詳細に記載されていた。「良くここまで」と思うほど秀逸な出来栄えだった。極めつけは、写真の一つに大きなボルトをアップで映し出すものがあり、「これを締める時の微妙な感覚は、資料では伝えられない。ここから先は、現場で一緒にやりながら引き継ぐ」とあった。

もう一つは、定年間近の設計技術者のものだ。「入社以来、しでかした失敗」と題したA4一枚の簡潔な資料には、20項目ほどの失敗談が箇条書きにされていた。各項目の末尾には損失金額が記されており、合計するとなんと優に1億円を超えた。資料の最後に「このようなことだけは、するな!」とあった。いずれも、当人の心の中に、自分の仕事を引き継ぐ(まだ見ぬ)後継者が存在しているかのような資料だった。

日本の会社で引継ぎが最も上手くいっていないと思われる職責は、社長職だ。新任社長に私が尋ねる定番の質問がある。①「自分の任期をいつまでと定めているか?」、②「それまでに会社をどのようにしたいか?」、③「誰に引き継ぐのか?」の3つだ。自分の使命と任務に自ら期限をつけ、その間に達成すべきことを明確にして、経験を伝承し後継者を育成することを問うものだ。

就任と同時に「後継者は?」と聞かれても、即座に候補者名を上げるのは難しいかもしれない。しかし、外資系企業ではこれをルーチンとしているところが多い。サクセッションプラン(引継ぎ計画)を就任と同時に考えはじめることで、「後継者の育成と選定が、日々の事業運営と同レベルで重要である」ことを自覚する

経営の本分は「社業を通じて社会に責任を果たす」ことにあり、会社は綿々と存続する前提に立っている。経営トップを筆頭に、職場のリーダーは、自らの区間を走り切るだけでは本分を果たしたことにはならない。バトンを渡す相手抜きには、事業経営というリレーは完結しないことを重々肝に銘じたい。