「面白きこともなき世を、面白く・・」と詠んだのは、幕末の長州藩士高杉晋作である。一説によると、病床の高杉を看病していた僧侶・野村望東尼が、これに続けて「住みなすものは、心なりけり」と下りをつけて、句を完成させたとも言われている。この句は、過去2年、新型コロナウィルスによって日常生活が思うに任せなかった我々に、改めて生きる心構えを伝えてくれるように思う。
どんなに過酷な環境にあっても、それをどう捉えるかは心次第だ。生活環境だけでなく、自分を取り巻くありとあらゆる事物や人に対する感情も、自らの「心」が決めている。
長年原因不明の難病を患い、「心」の存在を強く意識した人がいる。生命科学者としても知られる柳澤桂子*1さんだ。彼女の闘病生活は壮絶だった。そんな中、やっと回復期にあって車椅子で街を移動中に、同年輩の婦人からかけられた「たいへんでいらっしゃいますね」という言葉に、「自分は憐(あわ)れまれているのか」という考えが浮かぶ。
「憐れまれている」という嫌な気持は、自分の「心」から生まれたものだ。自分がいなければ、婦人の優しい気持ちだけが存在しただろう。この認識から自我に対する洞察を「身震いするほどの感動」とともに会得する。それ以降、自分が不幸だとか、他人を恨むとかいう気持ちがなくなったと述懐している。
「心」が決めるのは、感情だけではない。行動も「心」によって促される。進学や就職、結婚や転職などの人生の転機では、誰もが自分の思いや気持ちと向き合うだろう。しかし、「日常生活」とはよく言ったもので、我々の日々の生活は大半がルーチン化(常態化)していて、特段深く考えずとも大過なく過ぎていく。
特に会社生活では、上司や部下、顧客などからの他者の依頼に応えたり、誰かが設定した会議に参加したりすることに多くの時間を割き、自らが主体的な意思によって起こす行動機会は限られる。それ故に、真に充実した人生を生きようと思えば、一層、日々の暮らしの中での「心」の置き所が問われる。
フランスの思想家テイヤール・ド・シャルダン*2は、人間の正体を「精神(霊)的存在」と見る。曰く、「我々は、精神的な経験を伴う人間(ヒューマン・ビーイング)ではなく、人間的な経験を伴う精神的存在(スピリチュアル・ビーイング)である」と。
高杉晋作は、吉田松陰が率いた松下村塾の塾生である。幣「弘下村塾」を松下村塾の姉妹校と勝手に自認している私(笑)には、冒頭の高杉晋作の辞世の句はシャルダンの思想と同等に深い。
世の中や他者をどう見るかも、自分がどう行動するかも、全ては自らの「心」にかかっている。年頭にあたり、多くの同朋と共に 2022 年をより良い年に出来るよう、さらに「心」を磨くことに努めたい。
(タイトル写真は、山口県萩市 松陰神社・勧学堂)
註)
*1 柳澤桂子:生命科学者、サイエンスライター(1938~)逸話の引用は、著書「いのちの日記 神の前に、神とともに、神なしで生きる」(小学館)から。
*2 テイヤール・ド・シャルダン Teilhard de Chardin:フランスの思想家(1881~1995)。キリスト教進化論で知られる。引用文の英文は、“We are not human beings having a spiritual experience. We are spiritual beings having a human experience.”