男女の特性にはふれるが、性差別を語る意図はない。「戦争は女の顔をしていない」は、ベラルーシ出身のノーベル賞受賞作家スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチさんの著書のタイトルだ。
第二次世界大戦中、ソ連(ロシア、ベラルーシ、ウクライナを含む)は、女性を戦闘員とした数少ない国の一つだ。首都モスクワにも迫るドイツ軍の侵攻に、国民総出の攻防を余儀なくされた。戦地に赴く女性には、狙撃手としての特殊訓練を受けた10代の少女たちもいた。中には百戦錬磨で多数の敵を討ち、勲章を授与されるほどの女性狙撃兵も現れた*。
しかし、帰還した彼女たちの戦後は過酷だった。平和な時代、女性にとっての戦闘員の過去は、英雄でも愛国の徒の証でもなく、ひたすら覆い隠しトラウマに苛(さいな)まれる、耐え難い心の錘(おもり)となった。書籍「戦争は女の顔をしていない」は、そんな彼女たちの生きざまと心の葛藤を生の声で綴り、それまで男からは語られることがなかった戦争の真顔に迫る貴重な作品だ。
本書は「戦争は狂気」の証言と物語で溢れている。敵は標的であり、それぞれに生活を営む人間ではない。そう思わなければ、自分が殺される。大量の死が日常となり、死体は物体と化す。同時に敵への復讐心が膨張する。倫理を欠いた空間では男が女を強姦する。極限状態の中で、人はまともな判断力も行動規範も持ち得ない。
戦争は起こした時点で、全員が敗者だ。「人間の敗北」と言ってもいい。人間社会に戦争が繰り返されるのは、相手を力で制する意識が働くからだ。それには、そこに至るまでの政治外交が男性のみに委ねられていることに少なからず関係があるように思う。
大胆に言い放てば、男は女より暴力的で征服欲が強い。世の中の殺人犯の7割以上が男性だ。男性ホルモンのテストステロンが闘争心や攻撃性と関係していることも分かっている。一方、女性は戦闘や征服より、次世代を育み他者をケアする本能が総じて勝るものと思われる。
現下のロシア・ウクライナ戦争で停戦交渉のテーブルについたメンバーは、両国共に全員男性だった。外交交渉の双方に女性が加われば、さらには女性が主導すれば、国際紛争への対処はより協調的になるのではないか。私はそう期待している。人間社会の取決めを男だけに委ねては不完全だ。
「男は理想を追い、女は現実に生きる」とも言われるが、理想は現実をふまえて意味を成し、現実は理想をみすえて輝きを増す。現時点では、社会をリードする役割があまりにも男性に偏っていることから、国際関係だけでなく、政治も企業経営を含め、社会の隅々に生じた現実の軋(きし)みを解消できずにいる。特に日本はこのダメージが大きい。
戦争は人間が道具・武器を持ったことと、(一部の)男性の支配欲と攻撃性が結びついた結果とも言える。生身の人間は、他の動物と比べても、男女とも身体的に他者殺傷能力が高いわけではない。武器の使用を制御し、人間がもつ女性性が男性性にある過剰な攻撃癖を諫(いさ)めることが出来れば、人間社会は決して自ら破滅の道を選ぶことはないだろう。
元来、「戦争は人間の顔をしていない」のである。
*(推薦図書)「同志少女よ、敵を撃て」 逢坂冬馬著 早川書房刊
第 11 回アガサ・クリスティー賞、2022 年本屋大賞受賞作。小説ながらリアルな戦場の臨場感と極限状態での人間の心理を巧みに描写。現行のロシア・ウクライナ戦争の惨状に思いを寄せる上でも大変刺激となる作品。
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