ビジネスで常に問うべきは「誰にどんな価値を提供するか」だ。業績が良い会社と悪い会社の差は、この問いに対する社内の意識の高さや話題の多さにも現れる。特に「誰に」は、入念な吟味が必要だ。顧客対象者が何に困っていて、何を望んでいるかを知らなければ、提供する価値も定まらない。しかし、提供側は意外にもこれが分かっていないことが多い。
通常、販売後の製品とメーカとの接点は断続的で限られる。クレームや故障の時や、フォローアップ訪問の時などだろう。法令で定期点検を義務づけられていたり、メンテナンス契約を結んだりしていれば長期にわたって接点を保つこともできるが、それでも、顧客が日々製品を実際にどのように使って、その都度どのような思いを抱いているかまでは知りえない。
かつて勤めた造船所では、新しい設計法や初めての主機を採用した新造船を引き渡す際には、最初の航海に保証技師を乗船させた。保証技師は、長期間(場合によっては3、4か月)乗組員と共に過ごし、推進機関を始め、荷役システムなどあらゆる機器の使用実態を実地で知ることになる。航海中の万一の不具合への対応が第一の任務だが、保証技師の経験と知見は、造船所にとってその後の製品改良と開発に欠かせない要素だった。
現在、多くの製品でこのようなアフターサービスは稀(まれ)だろうが、今後はさまざま業界で「カスタマージャーニー型ビジネス」への転換が図られるものと思われる。カスタマージャーニー型ビジネスとは、まさに新造船の保証技師のように、製品やサービスを提供した後も、顧客と使用経験(旅、ジャーニー)を共にし、顧客のさまざまな要求や困りごと(ペインポイント)に応えるビジネススタイルのことだ。
船舶と違って、価格も安く、かつ多数の顧客を対象とする商材でもそんなことが出来るのかと訝(いぶか)るかもしれないが、それを可能にするのがデジタル技術だ(ここでは広義の意味で DX と呼ぶ)。今や生活の中の画像、映像、音声、テキストなど、あらゆる情報がデジタル化している。
デジタル情報は収集、転送、加工、分析、保存が容易だ。カメラやレコーダ、センサーなどと組み合わせることで、販売後の顧客の使用経験(ジャーニー)を実際に同伴することなく、データによってフォローし、(場合によっては人間より的確に)把握することが可能となる。カスタマージャーニー型ビジネスと DX は相性がいい。
これを上手く活用できれば、顧客へのきめ細かいサービスや新たな価値の提供、製品やサービスの改良・開発に威力を発揮するだろう。これまで「製品売切り+断続的なアフターサービス」がビジネスモデルだったメーカ業は、大きく変貌することになる。ひとたびこれが業界スタンダードとなれば、カスタマージャーニー型にない企業は淘汰される恐れも出てくる。
ただし、ここで心すべきは「企業が追求すべきは、顧客価値の提供であり、データコレクション(収集)ではない」ことだ。いくら AI やビッグデータ解析が利用できるからといって、「やみくもにデータさえ集めれば、あるいはデータが集まる場(プラットフォーム)さえ提供すれば、何らかのビジネスチャンスに結びつくだろう」と考えるのは安直だ。
ビジネスの本質は、あくまで「誰にどんな価値を提供するか」にある。これが製品市場戦略の起点であり、提供者が明確に意識すべき基本要素だ。DX はそれを強力に支援するツール。賢(かしこ)く使いたい。