M6 「マラドーナの神の手」と「カーリングスピリット」


1986年 FIFA ワールドカップを制したのは、アルゼンチンだった。その準々決勝の対イングランド戦、後半開始後6分、相手ペナルティーエリアに入り込んだマラドーナが、キーパーとの混戦から左手握りこぶしでボールをゴールに押し込んだ。多くの観客には明らかだったが、主審にはこれが見えておらず、ゴールが認められた。

マラドーナ自身、後日「ハンド」だったことを認めるも、「審判が認めれば、それはゴールだ」と語っている。世に言う「マラドーナの神の手」によるゴールだ。彼はこの大会のMVPにも輝いた。

もちろん済んだことでもあり、世の中にこれくらいのミスとそれを許容する気持ちはあるだろう。ただし、対戦相手のイングランドには、選手も、国民も、この結果に承服できた人は少なかったのではないか。何よりも、これを機にサッカー選手が「神の手」を連発するようなら、もはやサッカーにはならない。どんなスポーツもルールを遵守(じゅんしゅ)するからこそ、ゲームが成り立つ。明らかな反則に神を持ち出しても、正当性が得られるものではないだろう。

冬季オリンピックで定番競技となっているカーリンングは、このような行為を律するフェアープレイ精神が競技そのものの骨格を成している。競技を観て気づいている人もいるかと思うが、カーリングにはプレイを細かくチェックをする審判が存在しない。ひとつ一つの試技がルールに則っていることを担保するのは、全てプレイする選手自身だ。

カーリング競技規則の冒頭には、「カーリングをする者は、決して故意にルールを破らない」、「もし、万一不注意にも破るようなことがあれば、最初にそれを名乗り出る」、「アンフェアに勝つよりも、負けを選ぶ」ことが「カーリングスピリット(The Spirit of Curling)」として掲げられている。

実際のゲームでも、スウィープと呼ばれる、味方選手が投げたストーンの前方の氷面を擦る行為中に、ほんの少しブラシがストーンに触れたことで即座にルール違反を自己申告し、自ら試技を無効にするシーンがある。審判という第三者の監視のもとではなく、選手自身が自律的なフェアープレイに徹し、対戦相手を尊重するところに、カーリングのスポーツとしての成熟度と清々しさがある。

昨今、政界や企業社会で不祥事が起きると、外部の有識者をメンバーとする「第三者委員会」によって、事情を調査、検証することが定番となっている。事実の解明と判断の基準に客観性を持たせることを意図してのことと思うが、これは元来、不祥事を起こした当事者にそのような責任能力までもがない場合の手立てだ。

今の日本は「第三者委員会」に頼りすぎだ。さらには、事もあろうに、メンバーの人選や結論が当事者に都合の良いように「お手盛り」になっている懸念ケースさえも散見される。社会をリードする者には、本来、自分自身で自らの行動を振り返り、自己改革を断行する高い自律性が求められる。「第三者委員会」の発足を聞くたびに、今の社会の退化したかのような未熟さに気が沈むのは、私だけだろうか。

「マラドーナの神の手」と「カーリングスピリット」、捉え方は人それぞれだろうが、人間社会を正々堂々と清々しく営むためには、どちらが本来あるべき姿かは明らかだ。