M0 何も教えずに、人生で最も大事なことを教えてくれたウーさん


その人は我々の前に突然現れた。高校に入学して初の数学の授業で教室に入って来た彼は、生徒と礼を交わすなり教壇を降りて、教室の後ろの壁に寄りかかり目を閉じたまま動かない。何が起こったのか分からず、教室は一瞬沈黙に包まれたが、直ぐにガヤガヤし始めた。そんな状態が 20 分ほど続いた時だった。ウーさんが吠えた。

「君方(きみがた)、このまま1時間過ごすつもりか?!」どこの方言か分からないが、彼は我々のことを「君方」と呼んだ。「こっちが聞きたいよ!」ほぼ全員がそう思った(と思う)。

おもむろに教壇に戻ったウーさんは、「勉強は自分の意思でするもの」、「この授業は、教科書に沿って生徒が主体的に進めること」を伝えると、「君方、積極的にやるでぇ!」と言い放って、ルンバのようにまた元の場所に戻ってしまった(もっとも、この時ルンバはまだ世にはなかったが)。

「先生、授業やってください!」皆から背中を押されて、生徒の代表者が彼に詰め寄っても、「勉強は自分の意思でするもの」の一点張り。高校生活最初の数学の授業はこうして終わった。

2回目も始まりは同じだった。ウーさんは授業をしない、ルンバは充電モードだ。雑談する者、自習する者、弁当を食べ出す者などで、教室はゴチャゴチャになった。そんな時、新学期が始まったばかりでまだ誰が誰かも定かでない中、一人が立ち上がり「オレが教科書を読む。皆でそれに続く練習問題を解こう!」と言った。なぜこの時、自分にはこれが言えなかったのか?  出来る事ならあの日に戻りたい。今でもこの時この行動をとったA君を尊敬している。

それからは、毎回、誰かが教科書を読み、予習して来た者が黒板に問題を解くやり方で、授業(?)を進めた。ウーさんは、基本、後ろで見守る(?)だけだったが、それでも時折吠えた。一度は、黒板の解答が間違っていた時だった。ただし、彼が吠えたのは誤答した生徒にではなく、それを指摘しなかった我々全員にだった。「間違っていると分かっていて、なぜ正そうとしないのか!」

こんな具合で1年が過ぎた。我々は、いつからか名字の初めの一音をとって彼を「ウーさん」と呼び、我々の間でウーさんはずっと「月給泥棒」だった。ある時、生徒の一人が職員室に質問に行ったら、ウーさんがこれでもかと言うほど丁寧に教えてくれたという話が、我々の唯一の救いというか、ウーさんの面子を保つものだった。その後、「ウーさんはかつて名講義で知られたが、ある出来事がきっかけでそれまでの授業のやり方を止め、今のようになった」との伝説までもが流れた。

高校1年の終わりに、私は父親の転勤に伴って別の県に転校し、ウーさんとの接点はこれまでとなった。しかし、その後、ウーさんから叩き込まれたことの大切さを心底知ることになる。

転校先の高校は、受験対策から3年分の授業を2年間でカバーし、3年生は「過去問」を教材としていた。2年から転入した私は、(ウーさんの「数 I 」 だけでなく)「数 II 」の大半と「化学」の1年分の授業が受けられず、大学受験のためには、まさに「勉強は自分の意思でするもの」となった。今となっては若き日の一出来事に過ぎないが、不慣れな転校先での16、7歳の当時の身には、天地がひっくり返るほどの試練にも感じられた。

その後の歩みでは、大学院は学部とは異なる学科に進み、アメリカ留学時は未経験の学域を研究テーマにした。30 代半ばでエンジニアからマネジメントへとキャリアを転じ、造船、経営コンサルティング、バイオテクノロジー、発電プラント、人材育成と、関わる領域も変わった。その都度、新たな分野で「勉強は自分の意思でするもの」というウーさんの教えが、人生の転機を切り拓く原動力となった。月給泥棒どころか、振り返ってみれば、私は彼から「人生で最も価値ある教え」を授かった。

「君方、積極的にやるでぇ!」
あれから半世紀以上が経つ。ウーさんの吠える声が、今でも私の心の中で大きくこだましている。

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