M10 G7広島サミットに想う


世界に2つしかない被爆地、その最初の経験地広島で行われたG7首脳会議から1か月ほどが経つ。先ごろ、ある会合でこのサミットの評価を話し合う場があり、改めて今の国際政治と日本の役割について考える機会を得た。

サミット直後の世論調査では岸田内閣の支持率は大きく上がり、多くの国民がこの会合の成果を前向きに捉えたようだった。ロシア・ウクライナ戦争が泥沼化する中、ウクライナのゼレンスキー大統領が急遽来日したことも「よくやった」と思った人が多かったように報じられている。

確かに、世界主要国の首脳が一堂に会して、喫緊のグローバル課題を円卓を囲んで話合い、共同宣言を発したことには大きな価値があった。G7首脳が挙(こぞ)って被爆地広島の原爆資料館を訪れ、原爆死没者慰霊碑に共に献花を捧げたことも大変意義深いことだったと思う。しかし、どうしても気になることがある。今回のサミットで「日本の国としてのあるべき姿が大きく霞(かす)んでしまった」ことだ。

そもそもG7サミットは、世界をリードする先進7か国が結束し、国連憲章のもと、(全)世界の平和と安全を担保するための会合である。日本の政治リーダーが、この目的と被爆地広島での開催を重ねるなら、宣言の冒頭に「核廃絶への強い意志」を鮮明に示すべきだったのではないのか。ところが、現下のロシア・ウクライナ戦争から、会合は「核は抑止力としてやはり必要」というトーンになってしまった。

本来は「現状では核は必要悪だが、このような事態を起こさないためにも、一刻も早く列強保有国が先頭になってこれを廃絶する(そう努力する)」とすべきだった。自身広島出身の岸田氏に、もし核廃絶と世界平和を希求する信念があるのなら、そして日本が起こした先の戦争への強い内省があるのなら、サミット首脳宣言にこの一文を入れられるかどうかが、世界で唯一の被爆国日本のリーダーにとっての最大の争点だったはずだ。

広島での大惨事の実態を克明に振り返り、その意味を深く内省するには、首脳たちの原爆資料館の滞在はあまりにも短いものだった。カナダのトルドー首相が私的時間を使ってまでも後日もう一度訪れたことがこれを示唆している。資料館の芳名帳に記された各首脳によるメッセージと比べると、共同宣言文の内容はあまりにもヤワだ。「過ちは二度と繰り返しませぬから」との誓いが首脳間で共有され、世界を導く標(しるべ)として結晶化されたのだろうか。不安と不満はぬぐえない。

ゼレンスキー大統領を招いて、G7を武器供与の話合いの場としてしまったことにも疑問が残る。ゼレンスキー氏には好都合だったかもしれないが、これは各国の個別課題とし、この会合に合わせてやるべきことではなかったようにも思う。

議長国として、現下の戦闘状態に一刻も早く終止符を打ち、これ以上罪のない犠牲者を出さないことに腐心すべき日本が、逆に西側(NATO)に加担して戦火を煽ることになってしまった。本来は「ロシアを武力で強く牽制しつつも、戦争終結に向けた外交を如何に展開すべきか」の議論をリードする立場にあったはずだ。それが平和憲法を掲げる日本の、我々国民のあるべき姿だったと思う。公の発表とは別に、この種の協議が水面下で行われたことを願って止まない。

景勝宮島・厳島(いつくしま)神社の力を借りて日本文化はお披露目できたが、肝心の日本の国の形は霞むばかりだ。この国を率いるリーダーには、深い歴史観から理想と信念に燃え、世界を束ねる力量が求められている。