M0 持つべきものはパートナー


仕事をする上で互いに「信頼し合えるパートナー」がいれば心強い。同僚、先輩、上司、部下、顧客、サプライヤーなど立場の違いはあっても、仕事は建設的に進み、会社生活は充実するだろう。「どう働く」は大事だが、「誰と働く」かも同様に大事だ。

「信頼に足るパートナー」とは、困った時、親身になって援助の手を差し延べてくれる人、苦しい時、しっかり話を聴いて受け止めてくれる人、希望を持った時、それに向かって協力を惜しまない人などのことだ。互いにそのような存在であるならば、「信頼し合えるパートナー」と言えるだろう。

家族や友人を含め、そんなパートナーが一人でもいれば人生は輝きを増す。しかし、そのような人が必ずしも「生涯にわたるパートナー」である必要はないように思う。

むしろ仕事上は、それぞれの局面(時と場合)で、理想や目的を共有し、理解し合い、助け合える人と出逢えることも多い。私もこれまでにそのような人との出逢いに幾度となく恵まれた。互いの歩みからその後の接触は途絶えても、それぞれの局面で授かったご縁は今でも心の中に息づいている。

そんな縁に恵まれるには、社会活動での立場(年齢、職責、上司・部下、顧客・サプライヤーなど)によらず、どんな場面でも相手を人として尊重し、誠実に接することが基本だ。「信頼できるパートナー」を求める前に、自らが「信頼に足るパートナー」であることが先決だ。思うに任せない人間関係の現実はあろうが、落胆することなく、驕(おご)ることなく、原則を貫きたい。

仮に現在「生涯にわたるパートナー」が見つからない場合でも、そのような存在を心に想定することはできる。それを「神」と呼ぶか「大いなる力」と呼ぶかは別として、生きる上での助けになるなら、この種の想定にも意味はあるだろう。私は特定の宗教を信ずる者ではないが、キリスト教には旧約聖書に由来するこんな話がある。

- あなたは神と二人で浜辺を歩いている。砂には二つの足あとが並んでのこされていく。一つはあなた、一つは神のものだ。あなたが後ろを振り返ると、これまでの軌跡の中に足あとが一つしかない場所がいくつかあった。それはどれも、あなたが辛く悲嘆に暮れた時期と一致した。

あなたは神に問う。「あなたはいつも私と共にあると言われたが、私が最も困難なとき、私を見捨てられたのですか?」
神は答える。「私は決してお前を見捨てたりはしない。お前が試練と苦しみにあったとき、私はお前を背負って歩いていたのだ。」-

持つべきものはパートナー。それが生涯の伴侶でなくても、仮に実在しなくても、心の中に自分を支えてくれる存在を意識できれば、生きる力はより確かなものになるだろう。