M0 手探りの教育、未開の能力


人間はどこまで、そしていつまで能力を伸ばせるのだろうか? 脳科学は日進月歩だが、人間の能力開発は未だ手探り状態だ。随分前だがノーベル生理学・医学賞受賞者(1987)の利根川進さんから、猫の視力についてこんな話を伺ったことがある。

「猫は生まれた時点では眼球と脳の視覚野とがつながっていない。この神経がつながるには生後一定期間内に環境からの刺激(=光)を必要とする。仮に生まれたばかりの子猫を1週間箱に入れて外部からの光を遮断すると、その猫は一生目が見えないままとなる。これから類推すると、生き物の能力開発には、成長過程の特定のタイミングに特定の刺激が必要なことが示唆される・・」そんな内容だったと思う。

人間の能力開発にも適正なタイミングがあることは想像できる。英語の発音は、幼い時に習得しなければネイティブ並みになることは難しいし、ゴルフのハンディキャップにも、始めた年齢の半分の数が限界という俗説がある。信憑性は別として、能力開発にはタイミングがありそうだ。

一方、脳は部位によって成長時期も異なり、いくつになっても活性化することが分かっている。身体的な成長期だけでなく、その後の年代でも能力分野毎に適切な開発のタイミングと育成や維持の方法が分かれば、人間は生涯にわたってもっと能力を発揮できるだろう。

その点から、今の学校教育は何とも心もとない。そもそも義務教育を受ける年齢を6歳からと定めたのは1875年だ。現行の六・三制が施行されたのは戦後直後の1947年のこと。高校と大学、大学院制度も含めて、人間の能力開発を科学的合理性からみて定めたわけではなさそうだ。(実際、義務教育の開始時期と期間は国によって異なる。例えば、オランダの初等教育は5歳から、フランスは五・四・三制で16歳までが義務教育である。)

日本の教育で私が特に危惧するのは、大学院以降の教育だ。まず日本の大学院は、研究(論文)がメインで専門分野の包括的な知見を養う機会が十分とは言えない。他方、アメリカでは博士号の取得にも相当数の科目の履修が必要で、試験による振い落しもあるので、学生は実に良く勉強する。

日本ではオーバードクター(就職できない博士号取得者)が社会問題だが、外資系企業の経営トップには Dr. の称号を持つ人が多い。大学院での育成方法にも一因があるように思う。

さらに、日本は社会人教育も十分とは言えない。日本企業が社員教育にかける費用は、感覚的にざっくり言えば、欧米企業の3分1から5分の1くらいではなかろうか。日本ではいつまでも理系、文系を区別しがちだが、欧米は一定期間働いた後、大学院に戻って全く別分野の学位を取得する人(Malti Degree Holders)も珍しくない。理系・文系出身者を問わず、ビジネススクールでMBAを取得する熱も日本よりはるかに高い。

結局、日本では「大学受験までが勉強の期間で、大学は社会に出るまでのモラトリアム期間、会社に入れば一心に働くのみ」の風潮が未だに根強い。人生100年時代、日本こそ「全世代教育」にもっと真剣になるべきだ。

「明日死ぬつもりで生きよ!永遠に生きるつもりで学べ!」
Live as if you are to die tomorrow!  Learn as if you are to live forever!

こう説いたのは、インドの哲人ガンジーだ。未だ手探りの能力開発にあっても、「学び続ける」ことが大事だ。さまざまな社会課題の解決にも、先が見通せない事業環境の打開にも、そこから一条の光が差し込むだろう。