M10 映画「教皇選挙」が伝える信仰(と事業経営)の起点


去る(2025年)421日、フランシスコ・ローマ教皇が逝去された。バチカン市国では57日から2日間にわたり、カトリック教徒14億人の頂点に立つ新教皇を選出する選挙が行われた。これが後押しにもなり、まさに機を同じくして上映中の米英合作映画「教皇選挙」が世界中で注目を浴びている。先ごろ、この映画を観た。

映画のストーリーは(ネタ晴らしをしない前提で)大略こうだ。
『ローマ教皇の死去に伴い、世界各国から総勢100名を超える枢機卿が、新教皇を決める「コンクラーベ」と呼ばれる選挙を行うためバチカンに集結する。(枢機卿たちは投票者であると同時に、自らが新教皇の候補者でもあり、選挙は1人の候補者が少なくとも全体の3分の2の票を得るまで何回も(何日も)繰り返えされる。)

2回目の投票で候補者は6人に絞られた。以降、彼らの間で有力候補の過去のスキャンダルの暴露や票の根回し・買収など、陰謀と駆け引きが繰り広げられる。自らも有力候補の一人で、コンクラーベを取り仕切る主人公ローレンス首席枢機卿の信仰と心情の狭間で揺れ動く苦悩と采配を軸に、物語は進む。

選挙結果は、死去したローマ教皇が生前に仕組んだいくつかの事柄が核となって、意外な結末へと導かれていく。時代の変遷とともに変わり行く人間社会の実相に、歴史の重みと因習に満ちたカトリック教会がどう対峙すべきかをオープンエンドで(答えを示さないままに)問いかけて終わる。』

映画の舞台は選挙戦という比較的単純なものだが、これまでシスティーナ礼拝堂内の秘密のベールに包まれていた教皇選挙の詳細を伝え、聖職者でありながら熾烈な権力闘争に翻弄される人間模様を巧みに描くことで、政治ドラマ(ミステリー)として非常に秀逸な作品に仕上がっている。

名声と権力への「野心・欲望」と自らの心に真摯に向き合う「正統なリーダーシップ」との相克、さらには長い歴史を持つ組織による多様性の排除などは、宗教界に限らず、政界や企業を含む多くのコミュニティが抱えるテーマでもある。特に近年は「自己中心、損得勘定を全面に掲げる勢力」が跋扈(ばっこ)しており、その点からも時機を得た作品と言える。


本稿ドラフト中(日本時間9日朝)に入って来たニュースによれば、現実のコンクラーベで次期教皇に選ばれたのは、奇しくも米国の枢機卿とのことだ。信仰は、政治、経済、社会の底流としてこれらに少なからぬ影響を及ぼす。新教皇は、カトリック教徒のみならず、米国を筆頭に全世界でその存在感が問われるだろう。

映画の中で特に私の心に残ったシーンは、主人公ローレンスが執行役としてコンクラーベの開催を宣言する場面だ。形式的な挨拶を途中で止め、突如原稿を読む眼鏡を外し、言語もイタリア語から英語に切り替えて、聖職者としての自らの矜持(きょうじ)を語る。

『我々の信仰は、「疑い」と共に歩むものであり、正にそれ故に生きづくものである。もし「確信」だけが存在し、「疑い」が全くないのなら、(この世に)神秘は存在せず、信仰も無用となるだろう。』(実際の台詞は、"Our faith is a living thing precisely because it walks hand-in-hand with doubt. If there were only certainty and no doubt, there would be no mystery and no need for faith."

翻(ひるがえ)って、企業経営は、不確実な要素に満ちた事業環境の中で出来る限りそれらを排除し、定めた目標を達成しようとするものだ。しかし、所詮人間の考えが及ぶ範囲には限りがあり、その外側には人知の及ばない広大な「神秘」が広がっている。それ故に想定外の事が起こり得る。「確信(certainty)」は思考を停止させ、寛容の大敵ともなり得る。驕(おご)ることなく経営の舵取りに当たることが肝要だ。

信仰も、そして事業経営も、「確信に取り込まれず、常に疑いと共にある」ことが共通の起点と、この映画を観て改めて心に留めた。



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