M4 トランザクティブ・メモリーで組織学習力を底上げする


経営に携わっていると、組織が必要とする知識や経験が社内に存在しているにもかかわらず、十分に活かされていない瞬間に出会うことがある。自社のコアコンピタンス(中核となる能力/価値)が明確にされておらず、さらに、それが社内のどこに存在しているかも曖昧なことが多い。

外資系企業の社長時代もこの点が気にかかった。相談事は直属の上司や身近な仲間とだけで行われ、自社に固有の強みや技術知見が広く共有されていない。社内で誰がどの領域に精通しているのかが明確でないため、知を探し当てるだけで時間を浪費する。知識の不足ではなく、知識の流通不全が組織の足を引っ張っていた。この傾向は、事業部をまたいだり、職場の所在地が離れていたりして、対象範囲が拡大するほど顕著となる。

この停滞を打破するには、各人の知識そのものを増やすより、知の所在を可視化し、引き出しやすくする仕組みを整える必要があると考えた。その具体策として導入したのが「マイスター制度」である。まず、自社のコアコンピタンスを事業領域ごとに整理し、該当する知見や技量を保有している社員を特定した。

彼らには各々の領域のマイスターの称号を与え、机上に置く称号プレートと額入りの認定証書で、その存在を組織内に明らかにした(役割の重要性を示すため、プレートも認定書の額も格調高いものとした)。マイスターの役割は2つ。社内からマイスター担当領域の質問や相談を受けた際は原則最優先で応えること、別途推進していた社員教育で研修セミナーを開き講師を務めることである。月額手当ても支給したが、狙いは報酬よりも「自社の中核力を担う者としての自覚」を醸成することにあった。

制度が動き出すと、変化は予想よりも早く現れた。先ずマイスター自身が自らの専門性を研ぎ澄まし、相談を通じて周囲にも知が円滑に伝播するようになった。知識が個人の引き出しに閉じ込められるのではなく、社内の財産として共有されたことで、さまざまなレベルで問題解決力が増したことを実感した。

後になって私は、この状態が社会心理学でいう「トランザクティブ・メモリー(交換記憶)」と符合していることを知った。これは「誰が何を知っているかー"Who knows what?"」を組織内で共有し、必要に応じて引き出せる状態を指す。個々の知見を増やすことももちろん重要だが、組織としての機動力を高めるには、知が滞りなく流れる経路をつくる方が効率的で実利がある。属人化を否定するのではなく、個々が持つ知を他者へ橋渡しできるように見える化することが肝になる。

経営の現場では、「会社の力は社員の力以上には及ばない」という現実に何度も直面した。そのたびに痛感したのは、社員教育の重要性と、知の伝承を偶発性に任せてはならないということだった。マイスター制度は単なる認定制度ではなく、自社の中核力の所在を明示し、後続へ継承するための器だった。こうした器が組織に根づくと、他社には容易に模倣できない強さとなる。

余談だが、私の社長退任時、役員諸氏が連名で「カントリープレジデント・マイスター」の称号を贈ってくれた。とても光栄なことだった。今もそのプレートを眺めると、組織に知を巡らせる仕組みを持つことの意味を思い返す。知識は所有しただけでは力にならない。トランザクティブ・メモリーとして見える化し、共有し、実践に活かすことで初めて、組織を動かすエネルギーとなる。


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