物事の「意義」を問うとき、意識は自分の外側、すなわち社会や世の中の価値基準へと向かう。一方で「意味」を問うと、あらかじめ用意された着地点はどこにもなく、意識は自分の内側、身体の中心へと引き寄せられていく。日常ではあまり意識されないが、「意義」と「意味」のあいだには微妙だが本質的なズレがある。
“現代人が「生きる意味」を問う際、この「意味」と「意義」を混同して、結局は「生きる意義や価値」を問うてしまいがちになる。「意味」はどこかで(既に存在して)見つけてもらうのを待っているような固定した性質のものではなく、「意味を求める」という内面の働きによって、初めて生み出される。”
こう説くのは、『仕事なんか生きがいにするな』の著者・泉谷閑示さんである。なるほどと思わされる指摘だ。「生きる意味」は人それぞれであり、誰かが与えてくれるものではない。それだけに、「意義」に捕らわれずに「意味」を問うことは、意外に難しい。
経営の世界に目を転じると、その本質は「意義」と「意味」の相乗にあると言える。「意義」とは、あるべき姿に向かう合理的判断であり、ビジネスロジックそのものだ。一方の「意味」は、その判断に沿って行動する人間や、組織という人間社会への洞察に関わる。泉谷さんは、「一個の人間は一つの職業に包摂されるほど小さくない」とも述べているが、経営の成否もまた、合理性だけでは決まらない。
弘下村塾では、経営リーダーが持つべき資質を「右手にロジック、左手にパッション」というフレーズで表している。ここで言うロジックは事業活動の意義であり、パッションとは単なる情熱というより、「人と人間社会の意味を問い続ける熱量」と捉えた方が近い。
しかし実際の経営現場では、ともすると「意義」に大きく傾きがちだ。業績目標やKPIの達成が最優先され、社員一人ひとりの成長や納得感が後回しになる。数字としての合理性は通っているが、現場では「なぜそれをやるのか」、「自分は何を託されているのか」という問いが宙に浮く。短期的には成果が出ても、組織の内側には疲弊や無力感が静かに蓄積していく。一見「意義」は正しく思えても、「意味」が伴わない状態である。
経営では、「事業の意義(ビジネスロジック)」に、個々の経営リーダーが自らに問いかける「生きる意味」が重なり合って、初めて唯一無二の社会価値が生まれる。この二つは車の両輪だが、特に後者は軽視されやすい。「意義」は制度や理屈として後から整えることができる。しかし「意味」は、経営リーダー自身が問い続けなければ立ち上がらない。自分にとって、仲間にとって、人間社会にとって、この営みはどんな意味を持つのか。その問いを発し続けること自体が、経営の質を規定する。
私事になるが、最近、水彩画を描き始めた。透明水彩絵の具が織りなす色彩の妙味に圧倒されつつ、実に楽しい時間を過ごしている。これにどんな「意義」があるのかを問う必要はない。思えば、幼い頃の遊びもそうだった。「意味」は説明されるものではなく、ただ夢中になる中で立ち上がっていた。
これまで事業活動中心の生活の中で、私は知らず知らずのうちに「意義」に寄りかかってきたのかもしれない。これからは、自分の内側から静かに立ち上がる「意味」を、もう少し大切にして生きていきたいと思う。
(推薦図書)「仕事なんか生きがいにするな」 泉谷閑示著 幻冬舎新書446

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