去る 10 月 27 日投開票が行われた衆議院議員選挙の投票率は、53.84%(比例代表)だった。1月に台湾で行われた総統選(71.86%)と比べると格段に低い。国民の約半数が国政選挙で投票行動を起こさない民主主義国家は、世界中探しても日本くらいではなかろうか。裏金問題から自民党政権への信任 / 不信任が選挙の争点だったが、それ以前に政治そのものの存在意義が霞んでいる。
選挙では自公による連立与党が過半数の得票を取れなかった一方で、票を積み増した野党側も大同団結できそうにない。これまで自民党による強引さが目立った日本の政治は、やっと多方面からの議論が交わせるベースが出来たとも言える。
しかしながら、現在の政党間、政治家同士で、直面する多くの国政課題にまともな議論ができるかは疑問だ。国会や委員会での審議を観ても、野党は相手を責め立てるだけのパーフォーマンスの色合いが濃く、与党は明らかに官僚が用意したと思われる答弁を棒読みしてかわすだけだ。その際に発せられるヤジも、あまりにも稚拙だ。
今、日本が抱える政治課題は重層的で多岐に渡る。① 少子高齢化と人口減少による労働力の減少と社会保障費の増大、② 経済成長の停滞と財政赤字の巨額化、③ 原発依存の是否を含むエネルギー政策と脱炭素社会への転換、④ 自然災害に対する国土強靭化、⑤ 混迷を増す国際情勢への外交と防衛力のあり方、⑥ 憲法改正の是否などの根本課題に加え、⑦ 企業政治献金の是否、⑧ 夫婦別姓の可否、⑨ 女系天皇の認否などが喫緊の社会課題だ。
そして何よりも、「この国をどんな国にするのか」のグランドプランが描かれない中で、「国民の力が、未来に向けて結集できていない」ことが最大の課題と言える。選挙後の政治には、これらの課題に国として一つひとつ答えを出すことが求められる。「揶揄」と「おざなりの答弁」では済まされない。政治討議とは、本来敵対するものではなく、互いに知恵を絞り合って国民にとっての最適解を見出すものだ。
今回の選挙で投票所に行って気づいた人も多かったと思うが、比例代表の投票用紙に記された立憲民主党と国民民主党の略式名がともに民主党となっていた。民主党と書いて投票した場合は、正式名(フルネーム)で投票された二党の得票数の比率で案分されると言う。略式名はそれぞれの政党が決め、選挙管理委員会等もこれを是正しないとのことだ。不覚にも、前回の選挙でも同様だったことを初めて知った。
どれか一つを選ぶ問題で、回答の選択肢に、内容が違うのに同じ選択符号のものが二つあれば、小学生でも「おかしい」と思うだろう。国政選挙でのこの明らかな愚を些細なこととして看過するのなら、我々自身が民主主義を愚弄していると言わざるを得ない。両党には「民主党」名に特段の思い入れがあるのかもしれない。しかし、選挙で自らの党を選んでもらう際の党名すらも調整できない政党に、国の行く先がまともに議論出来るとは到底思えない。
”国のため 捨てる我が身は惜しからで ただ思わるる 国の行く末”
1945 年敗戦間際に鹿児島県知覧から飛び発った、ある特攻隊員の辞世の句である。当時多くの若者が家族を想い、国の将来を想って若き命を断った。戦後の日本の民主主義社会は、その犠牲のもとにスタートした。あれから 79 年。我々が今暮らす社会は、真に彼らの想いに応え、自信をもって次世代の人たちに託せるものなのか。これを機に、改めて我が身に問い直したい。
(関連留考録)M10 日本株式会社は OTD へ舵を切れ!