昨年末に公表された「労働生産性の国際比較2024*」によると、日本の就労者一人当たりの労働生産性はOECD加盟38カ国中32位、1970年以降最低の順位となった。主要先進7カ国とは比べるまでもなく、断トツの最下位(先進7カ国中6位の英国はOECD18位)。日本の直ぐ上はスロバキア、下はラトビア、いずれも旧東欧諸国である。
日々職場で忙殺されていると、こう言われても実感が湧かないかもしれない。しかし、我々がそれと気づかないうちに、日本は国際競争力を壊滅的に落としている。「日本の職場はどこかに大きな課題を抱えている」 そう考えるのが妥当だ。
我々は決して怠けているわけでも、故意にのんびり仕事をしているわけでもない。むしろ日々仕事に追われていると感じる人は少なくないだろう。では、何が問題なのか?
日本企業特有の手間のかかるコンセンサス型意思決定、不明瞭な責任所在、部門をまたぐ意思疎通の悪さ、顧客価値を生まない数多もの社内向け作業、進まないDXなどなど、数多くの要因が上げられるだろう。しかし、長年にわたり日本の多くの職場を診てきた身には、これら以前に気になる根本的な問題が一つある。
それは「職場が自発的な意思に乏しい」ことだ。仕事が、会社から与えられたことを処理する役務提供となっており、「自らの意志で能動的に取組む活動」になり切っていないのだ。やらされ感が強く、心底本気にはなれていないのなら、仕事の効率は上がりようもない。
一心不乱に働きさえすれば、会社も社会もより豊かになった成長の時代には、役務提供型の労働でも一定の幸福感は得られたかもしれない。やる気も出ただろう。しかし、社会基盤が整備され、隅々までモノが行き渡った充足の時代にあっては、単なる役務提供ではさらなる成長は望めず、働き手にとっても、自分の意志を押さえて言われたままに仕事をするだけなら、充実した職業人生とはいかない。
労働生産性を上げ、世界に追いつき、充実した会社生活を送るには、職場での仕事を「役務提供型労働」から、自らの意志に突き動かされた「価値創造型労働」へと転換する必要がある。これには先ず経営側が、社員を「一塊りの労働力」と見るのではなく、「個別の意思と能力を持つ人格」として処すことが必須だ。
日本の職場は、新卒一括採用、年功序列型賃金・昇格、役職定年、定年退職、定年後再雇用などの年齢一律制度に加え、会社都合優先の配置転換や転勤 / 赴任など、「個別の意思と能力をもつ人格」視点からは程遠いルールや慣行が未だに事業運営のベースとなっている。これらを改革するには、企業単位の努力だけでなく、政府や経済団体等が先導して社会全体で取組む必要がある。
その上でさらなる労働生産性アップを図り、世界をリードし、他国の手本となるような国家となるのなら、国レベルでの変革が必須だ。私の提言は、日本が目指す国家像を「高付加価値技術開発立国」に定めることである。
一人当たりの労働生産性が低いのは、分母(就労者数)に対して分子の生産高が低いからだ。単なるモノ作り(工業化)ではなく、独創的技術開発によって生産高の価値を高める必要がある。これについては留考録「M10 日本株式会社はOTDへ舵を切れ!」で詳述しているので、参照願いたい。
労働生産性は国の労働効率を表す一指標(KPI)に過ぎない。必ずしもこれを上げること自体が目的ではなく、本来追求すべきは物心共の国の豊かさだ。日本は過去30年、世界の趨勢と自らの姿を顧みることなく、高度成長期の工業化社会で機能した労働環境から脱皮できず、生産性のみならず働く者の活力までも削ぎ落し、低落の一途をたどって来た。
再度世界に追いつき、名実ともに先進国としての道を歩むには、小手先の効率改善に終始することなく、充足社会における労働と社員のあり方、企業経営が是とする事業運営モード、国が目指す国家像を再定義し、国を挙げて抜本的な改革を推し進める必要がある。
(*註)公益社団法人日本生産性本部刊。2024年版は2023年のデータをもとに昨年12月に公表された。
(関連留考録)
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